ゴガミ身整療院
しんせいニュース  相談の多い症例  当院に来る人々

2012年2月

天使の翼

天使の翼

「直立に立つヒトの身体の可能性」のところでは人が直立二足歩行を可能にしなければ、ヒトの持っている知的能力に進化しなかったということを述べてきた。
ヒトの持つ直立二足の身体構造がどうしても知的進化のためには必要であり、また学習能力が高い機能的身体であることが知的進化のためには不可欠であった。
そしてその学習能力の高さを獲得するために、直立という極めてバランス感覚を必要とする構造を敢えて持つことで、平衡感覚を中心とする重心の制御機能を大きく発達させ、これが神経系の知的意識感覚を高めるきっかけになっていることがその理由であった。
 ヒトの身体は知的能力発揮のために必要な構造を持っている。
 今日まで自然界の仕組みを科学的解釈によって明らかにしてきた人類は、地球上の生物の中で初めて大気圏から脱出をして、宇宙空間へと飛び出すことが出来た。これも直立二足による機能的進化によって知的能力を我々が持ったからである。
 ここまで私は重力に打ち勝つ形態が直立二足による構造を可能にしたヒトの身体に見られるということを述べてきた。
ところが重力に打ち勝ち形態ということに深く拘るのであれば、重力の働く地上に垂直に立つということだけでなく、鳥のように空を飛ぶ、すなわち飛行ができる形態を持つというのも重力に限りなく打ち勝っているというものである。鳥が飛ぶようになって重力に打ち勝ったことと、ヒトが直立二足歩行を完成させて重力に打ち勝ったことでは、何がどう違うのであろう。
明らかなことは鳥たちに人類のような知的進化は現れなかったということである。
 もしヒトに天使のような翼があったとしたら、ここまで科学を発展させることが難しかったのではないだろうか。
 太古の恐竜の時代翼を持つ翼竜というのがいた。翼竜は今の鳥たちの祖先といわれている。恐竜の仲間には飛ぶモノがいた。これは凄い事実である。
 今日の鳥は、鳥類であって哺乳類ではない。哺乳類の中で翼を持った生き物といえばコウモリくらいであろうか。私なりに考えていくと空を飛べるということは、生き物としては大きなメリットである。
 人類は知的進化に優れていても空を飛ぶことが出来ない。跳躍は出来ても、持続的に空中を移動すること、すなわち飛行が、ヒトの身体能力では無理である。
ルネサンス期に多く描かれた天使の絵を見れば分かることであるが、天使にはヒトの身体と同じように手足があって、その上で背中に翼がある。これは鳥類から見れば大変に羨ましい構造である。
鳥類は翼を持つために、ヒトでいう手(上肢)を翼に変えて(進化させて)飛ぶことが出来ている。しかし天使は手があるのに背中に翼もある。もし人類が天使のような進化をしていたらと考えなくもない。鳥は翼を持つために手を犠牲にしている。
もし人類が手もあり足もあるという状態で翼を持っていたら、科学的進化を目指そうとしなかった可能性がある。なぜなら飛べるというのは便利すぎる。まして手があって翼があるなんて言ったら、ヒトを今以上にわがままな存在にする可能性すらある。ちなみに空を飛ぶ鳥を見て羨んでいたから、ライト兄弟は飛行機をつくろうとした。
ある程度の不自由を感じることが発明発見には必要である。ヒトの身体も知的能力のある身体ではあるが、喧嘩をすればライオンに負けるのが普通である。知的能力に優れた人類であっても、地球上で最強の生き物ではない。人類の祖先は弱肉強食の生態系という不自由の中で苦労をして知恵を蓄えてきたはずである。
それが天使のような体を持ってしまっていたら、知的進化どころかコウモリに退化してしまう所であると思う。コウモリは腕を翼にしているが、その先端には便利な指がある。哺乳類の割に夜行性で活動範囲が狭く、飛べるのにあまりいいイメージがない。天使の反対の存在として描かれる悪魔(サタン)はコウモリに似ていることが多いが、これは偶然であろうか。
これまで直立二足歩行を可能にしてきたヒトの身体は、学習能力が他の動物と比較したとき群を抜いて進化しているということを述べてきたために、ヒトの身体の不自由について何も述べてこなかった。動物界全体を見渡してヒトの存在を見たとき、ヒトという動物は弱肉強食の自然環境において極めて弱者である。人類の祖先は不自由な自然環境の中で知恵を絞り生き抜いてきた。これが大きな知的進化、我々の心に繋がっている。
しかし今日の日本は、先進国であり、各家庭に自動車があって、飛行機で海外に出かけられるなど、ヒトの身体の不自由なところを補う仕組みが多く存在するので、この便利さに慣らされているために「ヒトの身体の機能の限界」について、あまり考えなくても生活できてしまうようだ。
物質的な仕組みの文明開化のために今の生活は、過去の人類の社会環境と比べれば大変に便利で、便利なことが当たり前であり、このことが人類の思想の退化をもたらせているという可能性がある。
そうかといって今の時代を昔に戻せと言っているのではない。この便利さに慣らされず、然るべき考えと思想を持って生きる工夫が今こそ必要なのである。
思想とは生きていくために必要な人の心の栄養であり、これがその人の心の態度を明らかにする指針であり、生きていくための羅針盤である。思想のない状態で生きることは、実に哀れな人生を招き入れることに繋がる。
自然界の進化の力が、人に直立姿勢の身体を与える一方で鳥のように翼を与えなかったのは人が思想を磨くためである。思想は生きていくために必要な心の翼であり、思想を持てるように人に心があるといえる。ここが重要で、心があるというのは翼以上に人生を豊かにするためなのである。多くの人がこの重要なことを忘れて生きている。そして思想を練るために持っているはずの心で悪知恵を考えていたりというような見当違いなことをやっていたりすることもある。
もう一つ大事なことはこの心と体が決してバラバラでないという心身の仕組みである。人の持つ心という知的作用が進化できたのは、ヒトの身体が直立二足歩行に進化したからの他ならない。この身体になったから心が心として進化できたのである。たとえばヒト以外にヒトのレベルにまで心を進化させてきている動物はいない。もちろん動物には動物の心理作用はある。しかし思考をするというほどのものではなく、本能と五感からくる直感が一体であるような段階での心であることに留まっているといえる。
もしヒトのように思考するのであれば恐らくその思考を実現するための手や身体、言葉などという人と同じ身体構造機能が必要になってくるはずである。逆に思考を実現するための身体がなければその心は大変な不自由を感じることになる。
このように考えればヒトの心身というものは本来決してバラバラではなく、その心と体がどこまでも一体(一如)であることが明らかになる。
この心と体を結んでいるのは神経系という組織であり内分泌系というホルモンという伝達物質を介して身体を調整している系統である。神経系には自律神経系と運動神経系や感覚神経系から成り立っている。この三つの神経系と内分泌系は極めて関連深い相互作用がある。ちなみにこの相互作用について科学的に説明をするということは膨大な時間を要することになる。
しかし簡単にひとことでいってしまえば、正しい思想を持ち、日々の仕事に精進して規則正しい生活を心がければこれらの系統の協調作用は維持されることになっている。
しかしこの規則正しい生活とか、正しい思想を持つ、ということが簡単に実行可能ならば誰も人生に迷い悩みはしない。
ここが難しい。私を含め人生に試練は付きものなので、どうしても「背中に翼でもついていたら」と悩んでしまいがちである。どうすれば悩みが解決できるかという考えを練りながら思想を鍛えている。
しかし背中に翼がついていたらと考えることは非現実的で、これは飽くまで冗談の範囲であり、本当に翼でもあればなどと真面目に考えだすとコウモリに退化した考え方になってしまいがちである。
冗談で笑うことは真面目に考えすぎないために重要である。真面目すぎる人は冗談も冗談と思わないことがあるので注意がいる。冗談を冗談と自然に感じて笑っていられれば、正常に思考作用は働いていることになるので、くれぐれも冗談の通じる人で在りたい。
そもそも「規則正しい生活」のためには本当は冗談で笑えるという時間がいるのである。当たり前のことであるが、悩みは真面目に悩んでばかりいても解決しないものであるので、大まかな方向性さえ持って、その方向に向かう行動さえコツコツしていればいい。
方向性を知ることとその方向性に行動という努力をすることが何をおいても大切で、何の行動も起こさずに、ただ悩んでいるだけというのが最もよくない。
また行動を起こす場合でも、その行動が誰かの迷惑になるようなものであるとき、行動や仕事というのは飽くまで何かしらの社会的貢献がなければならないので、ここをはき違えないように知恵を絞るべきである。
実は、人生のほとんどはこの知恵を絞って行動するということに集約される。
この「知恵を絞って行動して生きていく」というのは人類の歴史が始まって以来変わらない真理である。つまりこの真理によって我々は進化してきた。この知恵を絞った行動によって人類の祖先は、打製石器や磨製石器という道具を使いだし、火を扱うことを覚えて人類進化に貢献してきたのである。
今は、我々の祖先が生きてきた時代と状況が違うかもしれないが、状況が違うからと言って知恵を絞ることを疎かにしていいというわけではない。ヒトには飽くまでも他の生き物にはない思考作用があるので、これを駆使しなければならないようになっている。この知恵を絞って行動をするということが実は体に善いのである。
ゆえに知恵を絞って方向性を考え、そして行動をする。そうこうしているうちに何とかなるという結果が来る。人類始まって以来ヒトは何とかしてきたのである。現代人は昔からの知恵の結集によって生活している。住む家も自動車も飛行機もライフラインも知恵の結集によって造られてきた。これも祖先が石器という道具を使いだしてきてからの人類の伝統である。
知恵を絞って方向性を見出し行動していれば、思想も神経系のバランスも内分泌系も整い始める。これも人類が翼を持たなかったおかげである。


ページトップへ

2012年1月

直立二足歩行はいまどのように思われているのか

直立二足歩行はいまどのように思われているのか

「直立二足歩行によって我々人類は歩いている」ということは、人であるならば誰もが分かっていることである。ところがこの事実を、今日、現代人である我々がどのように考え、理解しているのだろうか。
恐らく「ヒトが直立二足で歩くようにできているのは当前ことだ」という程度にしか、想ってないのではないだろうか。我々人類は普通に二本足で歩くことが、あまりにも当たり前であるために、あえてこの事実を深く考えることは無い。
 2011年連休中、FM放送のニュースで次のようなことが報じられた。
この年に起きた福島原発事故のために探査ロボットを放射線の高い事故建物の内部探査に導入されたのだが、このニュースを知って多くの人が、二足歩行ロボットを開発した某自動車会社に次のような問い合わせを殺到させたという。「あのような探査ロボットではなく二足歩行ロボットを使った方がいいのではないか」と。
さらにラジオのナビゲーターの某氏も「日本は鉄腕アトムを生んだ国なのだからそうすべきである」というコメントを添えた。
この放送を耳にした瞬間に、私は「やはりロボットを直立二足で歩かせることの難しさが、一般の人々には分からないのだ」と深く感じた。
 探査ロボットと二足歩行ロボットを比較したとき、まず知っていなければいけないことは“それぞれに開発の目的が全く違う”ということである。探査ロボットは探査用に必要なことを付加されたロボットであり、二足歩行ロボットはその名の通り二足で歩く機能を探求するために開発されているロボットである。
ここで特に注意したいところは、ロボットが人のように二足で歩くからといって、決して人のように器用なのではないということである。
“探査“という目的に絞るのであれば、何も二足で歩くということにこだわる必要は全くない。ましてがれきが散乱しているかもしれない足場の悪い事故現場を探索させるというのであればなおさらのことである。
このような足場の悪いところでは二足歩行ロボットの場合、転ぶ可能性が高く、また倒れてから立ち上げるのが難しい。垂直縦軸のボディーを持つロボットの難点である。足場の悪いところであれば、二本足ではなく、キャタピラーで進む方がロボットにおいては性能のいいものがあるはずである。現時点で我々人類が開発した二足歩行ロボットは、残念だが、決してアトムではない。こうしてみていくと二足歩行ロボットの開発は一般の人々に安易な期待を持たせてしまっているようだ。現実的にそのロボットがヒトのような知恵と行動力を持っているわけではない。
しかし、私が、このように言ったとしても、決して人類はアトムをあきらめるべきではなく、限りなくそのような人類に近いロボットというものを求めて開発していくべきである。なぜなら、その方が人類というものの本当の価値が、ロボット開発を通じて分かってくるからである。
昭和40年代の映画であったと思うが、人類の科学力が進んで、人類がロボットを作りそのロボットの方が人類よりも優れてしまって、ロボットが人類を征服するという脚本の映画があった。私のように直立二足歩行のことばかり考えているものからみれば、人間そっくりのロボットを作ることがいかに難しいか、またヒトと同じレベルの知能を持つということ、すなわち、それほどの“知的能力プログラム”を開発するというのが途方もない作業になるということが想像できるので、ロボットが人間を超えて人の社会を征服するというのは、二足で歩くロボット開発の難しさを痛感した昨今、現実的に見ておかしい話なのだが、直立二足歩行について、その意味を深く考えたことのない人々からみると、安易にロボットが人類を超える存在という発想をしてしまうようだ。人類の直立二足歩行という進化は我々が思っている以上にどこまでも厳かで厳粛である。
我々人類は直立二足歩行という進化によって、ほかの生き物にはその類を見ないほどに脳が進化してきた。この進化の事実をもっと真摯に受け止めなければならないときが来ているように思われる。
しかし冒頭のラジオのニュースのように、40年ほど前の映画のような思い込みで、今日でも二足歩行ロボットについては考えられてしまっているようだ。そしてこの発想がそのまま“ヒトの歩く姿が持つ意味”についての誤解にもつながりやすい。二足歩行ロボットの開発者はロボットが二本の脚で歩くということの難しさをもっと訴えるべきである。一般の人々はアトムがもうすぐ出来上がるように思ってしまっているかもしれないのだから。

ヒトの直立二足歩行という姿は地球上の動物の形態において最も進化の時間を費やした姿である。我々は生まれながらにヒトの身体で生まれ、気付いた時には、すでに二本の脚で歩いてしまっているものであるから、なかなかこの進化の事実に目を向ける機会がない。
そして直立二足歩行の進化に、それだけ極めて長いときを費やしたということは、それだけ“極めて高機能な仕組みを持っているものである”ということがその中に含まれている。
ゆえにロボット開発の歴史のここ数十年くらいと比較をすること自体が、ヒトの身体に対して失礼である。人智を超えた自然界の力が数万年単位の年月をかけて進化させてきたものである。いや恐竜の時代からの動物進化の試行錯誤を含めれば、数億年単位のときを費やしている。我々はこのようなことを、専門家だけに任せずに、あらためて考える必要があるはずだ。
いずれにしても恐竜や古代生物、人類になる前の原人や類人猿などの化石が発見されて、人類が登場する以前の古生物学の研究が始まったのも、進化に必要な膨大な時間と比較すれば、そんなに昔のことではない。
恐竜の発見が1822年イグアノドンの歯の化石の発見が最初である。この発見により人類が発生する前の古代において巨大爬虫類の時代があったということが分かるのである。猿人や原人の研究も近代史からである。それまでは聖書にあるような創世記に記されていることこそが人類の始まりであると一般的に信じられていた。日本も同じように古事記の中にあることが人類の始まりであるように思っていた。
しかし、これらは昔の有識者が、卵が先か鶏が先かというような説明のつかない自分たちの存在を、哲学的視野によって極めて象徴的に説いた道徳である。このように人類の始まりが宗教書を信じる以外にないという時代が人類史において長くあったので、人類が自らの姿を科学的な視点で研究し始めたのは、本当に歴史的に見て日が浅いのである。
300年くらい昔にヨーロッパあたりで「人の祖先は猿であった」というような進化論を口にすれば「神を冒涜するものだ」といわれるような時代であった。「何だ、キリストさんが活躍された時代の2000年前と1700年も後なのに、なんら変わらないではないか」と思われるが、その通りである。
今でもこんな勘違いのような常識はごまんとある。これはこの自然界において科学で解明されていることよりも解らないことの方が多いからである。こうして見れば人類が知識として知っていることなどは「たいしたことは無い」といえる。しかし、知的好奇心を限りなく持つ人類は、どこまでも発想を伸展させ、分からないことでも分からないなりに真理を探究する生き物である。
近代史において“人類進化の事実”を発見した人類、これは大変なことである。何といっても「人類の祖先は猿だ」というような研究がタブー視されていた時代が長かったのであるから。
これは地動説から天動説へ科学的認識が変換されたときと同様に、科学の上では歴史的な、人類が発想の変換をした出来事である。しかしこのようなことは今日、知識として多くの人に知られているのみで、それ以上に人類というものの認識については、いろいろな研究結果が発表されている割合に、それらの本質をよく考えず、何ら昔と変わらないような常識観で、多くの人が日々を生活している。
その安易な常識観により、ロボットが人類を征服してしまうという余計な心配に繋がっているように思われる。
専門的なことは専門家任せという傾向のためか、一般常識については、昔と変わらないことは何にも変わっていないということが、今日もたくさんあるのである。たとえば「人の命がどこから来ているのか」という疑問は、今も2000年前も分からない。
まだ科学的な知識は分からなくても「我々の命は天の父から来ている」というキリストさんの言葉に自然に耳を傾けることが出来た2000年前の人々の方が、命に対する認識は、意外に現代よりも、正しかったかもしれない。
今日、医学というのはとても権威ある学術のように思われているが、その医学でも人の命の根本が何であるかは分かっていないのである。「生命はあらかじめあるもの」として、そこから生きた身体に現れる現象を追って分かってきた事実によって医学は組み立てられている。医学は医学として極めて尊いことなのであるが、命という難しい問題については“あらかじめある”としなければならないのがヒトの命の認識である。ゆえに分からないのに、科学的知識があるために、分かったつもりになりやすい現代人の方が、昔の人よりも、命について考える時間は短いのかもしれない。あらかじめあるのは自然界からいただいているからである。人類は古来からそうであるように受け継いだ生殖という仕組みによって繁栄している。ヒトが進化してきた仕組みを今日の科学がすべて知っている訳ではない。我々人類が覚えられること理解できることというのは本当に限りがあって、たいしたことは無い。数千語の言葉を覚えれば日常会話ができる。しかしヒトの身体は100兆の細胞によって構成されている。我々は数千の情報で分かったつもりになれる常識を持っているが、身体の細胞100兆すべては自己と非自己を認識できるという不思議な作用がある。
この不思議な作用は自然界の進化が作った仕組みである。人類はこの仕組みを発見しただけであって決して作ったわけではない。自己と非自己が認識できるという不思議は不思議のままで、今にところ「この不思議をどのように解明すればよいのか」について工程を模索するだけでもまだ時間がかかるといえる。不思議な作用はあらかじめあるものとして考えるのが、現代の常識である。
医学においてこのようにあらかじめあるとして置いておかれる“生命の存在”については、本当に難しいので、ほとんど何から考えればいいか分からないような状態である。
残念ながら、医学はこの問題を考えられるほどの力をまだ持ってはいない。しかし日進月歩で医学の探求は進み、それにともない医学知識は膨大に多くなっている。これを学ぶだけでも大変である。
そのためか「生命がそこにある」という意識も半分忘れられていないだろうかと思ってしまうほど、いまでは誰も口にはしないものになりつつある。進んだ医学の膨大な情報に“生命の存在“が隠れ無いように、これは専門家のみならず、一般の人々すべてが、このことには関心を持ち続けなければならない。
これは自然界の営みもそうである。地球が回る力が、どこから来ているのかということは分かっていない。地球はあらかじめ回っているものとして、そこからその現象を見てその法則性を見出し、あらゆることが考えられていくのが地学である。
人類が作った工場は電気や石油などのエネルギーによって稼働して、製品を作っている。では地球は毎日自転をしているが、このエネルギーはどこから来ているのであろう。このエネルギーがあらかじめあるから地球は回っているのであるが、このエネルギーがどういったものなのか人類は知らない。知らないけれど昔から絶えることなくあるので、今後もあるに違いないと、そう思い込んで地球の上で生活している。つまりあらかじめあるということである。ところが人が作った工場の場合は、そこにエネルギーが途絶えてしまったら大変である。生産が停止され日本などの工業国はあっという間に経済的打撃を受ける。しかし、地球が回っていることは当たり前で、このことについて心配をしている人はいない。でもよく考えてみれば、この地球が回っているというエネルギーは大変なものである。工場の規模なんていうのは問題にならないくらいに大規模である。しかしいくら大規模であっても人々の心の中では、当たり前に思っていてあえてこの事実に目を向けることが無い。地球の立場から見れば、毎日当たり前であると思われながら回り続けなければならないとは大変に淋しいものである。ちなみに地球は、地上を構成して、我々人類の立場を確保してくれているので、その“地球さん”に対して、地球の立場のことを言うのは恐れ多いのであるが、立場を造る地球であっても地球さんの立場はあるであろう。
昔の人々は自然の恵みに感謝する習慣があったが、いっぱしに地球の自転という科学的事実を知識として知った我々現代人は、もう科学的に結構何でも知っているように思っているが、本当は意外に自然の力を知らない。というより自然の偉大さを半分忘れている。そして自然の力の存在を疎んじるようになってきている。
先進国の人ほど、地球の自転の事実を知っているだけで、もう何もかも分かったようなつもりでいるが、その力がどこから来ているのかは、本当は、全く知らないのである。ついでに言えば知らないということも知らない。「じゃお前はそれだけ言うのであるからわかるのか」というと私も知らない。私が訴えているのは、「人類はまだ知らないことが多い」ということを、例を挙げて、言っているだけである。分かったつもりでいることがミスを生む最大の原因であるのだから。つまり「天に唾するものは」のたとえに当てはまる、分かったつもりになれることの戒めに付き当たる人は、今の昔も結構多いということである。
中途半端に知識を蓄えた人類は、以外に根本的なことは分からないでいるが、解ったつもりで今日も生活をしている。科学が進んだように思っている現代人の多くは、科学の立ち入れない分野が自然界にたくさんあることになかなか目が向かない。空気はあって当たり前で、私も10代の頃は、周囲の者たちに「空気のように存在感のない奴だ」とよく言われてきた。私もどちらかといえば鈍い性格であったので、それが「けなされている」のか「褒められている」のかよく解らなかったが、地球の生命を守っている空気のことを思うと「これは褒められていたのだな」と最近になって分かった次第である。今頃、分かるくらいであるから私は本当に鈍いようだ。

 このようなことと同様に“ヒトが歩く”という事実も、そこに深い意味が潜んでいるということになかなか目が向かないものである。ヒトの身体も実は自然物であるので、自然界の力から生命のもとを受けているといえる。地球が自転しているのと同じように生命の力を受けているから生きている。このようにいうと我々は食物を食べてこれを栄養素として生きているという人もいるが、それはそうなのだが、生命の力を受ける能力が衰えると人は老化していく。食べ物だけで生きていけるのであれば食べ続ければ永遠の命がありそうになるが、人は老化をしていく生き物である。これは生命の根本が食物だけで足りるということではないことを意味している。
 なぜ我々は根本的なことを忘れてしまってきているのか。それは学校教育で受けてきたことが、分かっていることのみを教えてきたからである。つまり答えのあることを我々は学校で学んできている。答えのないことは科学的に分からないことなので、学校では教えない。その証拠に学校で行われる試験には必ず正解という答えがある。正解が出ないことは問題にされないのが現代教育の常識である。
 逆に社会に出ると、社会というのは人類が形成してきたように見えて実は自然界の支配の上に成り立っている存在である。たとえば時間である。時間は地球の自転と公転の法則によって決められた仕組みである。これが暦を作っていて、さらに細かく時間が区切られて時計の時を刻む割合が成り立っている。
だから、もし地球さんの都合で明日から自転の1回の時間を23時間で行いたいなんて、言ってきたりしたら、すべての時を刻む仕組みが変わってくる。地球さんはそんなわがままを言ったりしたことが、少なくとも人類の歴史が始まって以来なかったようなので、そのようなことを心配する必要はないようだが、JRの時刻表は定期的にJRの都合で変わることがある。これはヒトが作った仕組みだからである。
こうして眺めれば、社会は人が作ったところと自然界に支配されていることの両面から成り立っているというのが分かる。
だからどの株が上がるか下がるか、その答えは簡単ではない。また天気も自然界の法則によるものなのでこれに従うしかない。どうすれば営業成績が上がるかという答えも簡単ではない。これらにはヒトの思考のみでは簡単に答えの見いだせないものであり、学校では課題にされにくいことなのだけれど、社会に出るとこのようなことが必ず問われるのである。この中には自然の仕組みによるところが大きく関わっている。だから出来るだけこのようなことに関心を持って自分たちも自然界の一部であるという認識を持ち、決して分かったつもりにならないことである。
 
そこで注目していただきたいのが直立二足歩行ということである。直立二足歩行ロボット開発の事実は、我々に今、何を訴えかけているであろうか。
それは二本の脚で歩くことの精巧さである。
たとえば二本足のテーブルがあるだろうか。無いはずである。二本足で歩いたり走ったりできるということは大変なことである。ヒトは当たり前に歩いているけれど、当たり前に歩けるロボットの開発に四苦八苦している。
このようなことを考えると、精巧な動きを探求することで、そこに新たな知能が生まれてくるとは考えられないだろうか、人は二本足になり手の自由を得て、手の知的作業によって知能が発達してきているといわる。もちろんその通りであると考えられる。しかし私はそればかりではないように思う。二本の脚で立つことの精巧な仕組みも知的能力の変化に関わってきたように思われる。もちろん知的能力に与える影響の割合で考えれば脚よりは手の方が圧倒的に大きいであろう。しかしヒトの神経系は体中にあって思いを手足末端に至るまで伝達するという事実を考えたとき手だけに注目が行くのはまずいと思われる。
 ヒトはサッカーという競技をするが、サッカーは足でするスポーツである。これを見て人は、大変に、足までも知的能力の優れた生き物であるとは考えられないであろうか。
 ここでまた地球上に「二本足のテーブルはないのが当然だ」という事実を思い起こしていただきたい。
この二つの事実、すなわち、二本足のテーブルがないことも、人がサッカーをするということも当たり前であるという一言で片づけられ、見過ごしているが、これをよく突き詰めて比較して考え、さらに二足歩行ロボットが時速4キロで走ると新聞の一面を飾ることが出来るということも併せて考えていくと、人がたって歩き、さらに走り、さらにサッカーをしているということがとても知的な出来事に見えては来ないだろうか。
ヒトは見慣れたことに対しては当たり前になっていて、そこに不思議なことがあったとしても、あえて顧みないところがあるが、二本足で立つということはとても難しいことである。それを当たり前であると思ってしまえるほどに進化したヒトの直立二足歩行は、大変に高機能であり、これを機能的にコントロールしている制御機構であるヒトの神経系は、進化の過程でその機能が洗練されてきたことを意味している。
繰り返し言うことになるが、ヒトは地球の生き物の中で最も進化に時間を費やした生き物である。

今、脳のことが注目をあびているが、この脳はヒトの身体進化に伴って、その機能が知的に進化してきている。ペンフィールドの作成した、大脳半球の皮質領域における機能局在を示す脳地図を見れば分かることであるが、その脳地図からも顔や手、目や口が脳地図上では大きくなり、足や背中は小さくなる。
感覚器の多いところが大脳皮質の感覚領域では大きく位置を占める。しかしこれは感覚器系の機能を図示した地図だからである。また感覚器から得られる情報が思考の材料になっているということも見逃せない。しかし運動器系の方から見ていくと運動器系の中枢は大脳皮質の内側の大脳髄質でその割合を多く締めている。
脳の進化を順番に見ていけばわかることであるが脳は下から進化してきている。最後に現れ、厚みを増してきたのは大脳皮質の領域である。感覚や意識、思考という知的能力は神経系において最終段階の進化である。このことを考慮すれば脳の構造は理解しやすくなる。
結論から言えば、結論といってもこれは私の主観であるが、ヒトの脳が進化するためにはヒトの身体が必要であったということである。
以前に20世紀の宇宙人の想像図は、知的進化によって脳が大きくなるために、頭でっかちで手足が頼りないという姿で描かれ、多くの人がこのような姿の宇宙人としてイメージを植えつけられているが、これはおかしいのではという話をした。そしてこのイメージを鵜呑みにしない方がいいのではと。
ヒトの脳のさらなる知的進化のためには、出来るだけ親から受け継いだ五体を駆使して使うことが必要であると考えられる。
昔から心身は一体であるというが、頭でっかちの宇宙人では、不眠症になってしまうのではと思ってしまう。情緒が不安定になりそうな姿に見えるのは私だけであろうか。
もっと直立二足歩行をしている身体について、当たり前でなく、よく目を向ける必要があるであろう。


ページトップへ

2011年

当り前で見逃がしていること

当たり前で見逃していること

多くの一般的なヒトたちにとって“歩く”ということは、とても当たり前のことである。
ヒトにとって自らの両脚で歩くことは「自由に吸ったり吐いたりできる空気」と同じくらいに“当たり前”である。
すっかり当たり前になっている「歩く」ということに、あえて気を留めるヒトはほとんど無い。
しかし腰痛というものの病理を探るために骨格筋の仕組みを研究してみたり、また「柔よく剛を制す」というヒトの身体が不思議な力を発揮するときの仕組みを丹念に探っていくと、ヒトが二本の脚で歩いているという事実を安易に看過できなくなる。

「歩く」ことも「空気を吸う」ことも元気な人には、とても簡単にできることなので、通常、そこになかなか関心が向かないものである。また人間という生き物は「簡単にできること」は当たり前で、この「簡単にできること」についても、あえて顧みないという傾向がある。
そして、そのように「当たり前」になってしまうと、その当たり前の中に何か重要なものがあったとしても、なかなかそのことに気が付かない。
「人間が歩けるのは当たり前でしょう」と口には出さないが、心の奥深くの潜在意識では当たり前であると既にすり込まれている。だからヒトの歴史が始まってから現代まで、人類が「ヒトが直立二足で歩く」ことについて深く考えたことは「ほとんどない」といえよう。

元気な人は、それが無意識であっても「歩くことが当たり前である」と思い込んでいる。そのために腰痛や膝の痛みで足を引きずっている人を見ても、その人の事情が分からないことがある。
たとえば、次のようなお節介をいう。
「痛いからといって、そんな歩き方をしていたら余計に痛くなるではないか」と健康な人は、痛い人の状況が分からずに、ちょっと間違った同情をする。
私もそうだが、ソソッカシイ人々の多くは、その因果関係をよく考えず、目前の痛々しい姿を“手っ取り早く”何とかしようとするものである。
このようなことが理由で、腰痛持ちの奥さんが、ご主人と口げんかになることも多い。

また、やはり「歩くことが当たり前である」と思っていた20世紀東西冷戦時代の人類が、ロケットで宇宙に飛び立ったときの話である。
宇宙滞在の任務を終え、地球に帰還した宇宙飛行士がすぐに立てないでいる姿を見て周囲の人々は不思議に思った。「訓練された宇宙飛行士なのになぜ立ち上がれないのだろう」と。
これは無重力という環境がヒトの身体に与える影響について、当時の人々が予想できなかったために生じた疑問である。
さすがに宇宙ステーションまでできた今日では、無重力状態から帰還した人体の変化についてはいろいろ知られてきて、宇宙空間の無重力のために身体の筋肉に負荷がかからないという事実を知っている。そのために長期の宇宙滞在の後は、筋力が弱って立てなくなるのだと判ってきた。
このように人類が宇宙へ飛び出し、無重力状態で生活して起こった身体の変化というものを経験したことによって、人間が立って歩くことが“当たり前である”と思っていたことに、人類史において初めて大きな疑問が生まれたのである。
我々人類は、地球の重力によって生じる自らの体重を、自らの筋力で常に支えて生活している。この事実がヒトの身体の基礎的筋力を維持する大切な原動力になっている。
この原動力が無重力状態には存在しない。
そして、この宇宙滞在という経験から、無重力状態のときに筋肉に負荷がかからないことが最大の原因なのだから、宇宙滞在中もバネなどを使った筋力トレーニング器具による訓練を欠かさないようにした。
宇宙滞在中の筋力訓練を義務化したのである。
無重力状態では重量の負荷を利用したウエートトレーニングができないので、バネなどの弾性による負荷を利用している。
しかし、そのように訓練して筋力の低下は防げたが、平衡感覚の低下がみられることが新たに分かった。帰還後にお辞儀をするとそのまま倒れそうになるということに気付いたのである。
この新たな事実から、器具による筋力訓練だけでは身体を支えるすべての機能を訓練していることにならないと分かってくる。
これは“重力のありがたさ“と“ヒトが立って歩いている”ということの、そこの秘められた重力と身体機能の関係の深さを、人類が地球から飛び立つことによって知ることができた人類の経験といえよう。

そう、よく考えてみれば、重力に抵抗して垂直、縦に立っているということは、本来難しいことである。テーブルだって脚が四本付いているのが普通である。
地球上において二本足でモノを立たせることは難しい。
よくよく考えてみればヒトのように垂直に立ってバランスを保ち、転ばずにいられることは不思議である。
我々人類はそのような心配をせずに当たり前に立って歩いてきた。
少なくとも宇宙に飛び出して無重力状態を経験した人類は「なぜ我々人類は地球上において二本足で立って歩いているのであろう」とヒトが歩くことの探求の契機にしなければならない。

また変な話に聞こえるかもしれないが、無重力状態では「立つ」という概念が存在しなくなる。
立つことが出来るのは、そこに重力がはたらく地上があるからである。
重力の働く地上がない宇宙空間では、地に足をつけて立つように立つことが出来ない。ゆえに無重力空間では上下の基準が曖昧になる。
地上あってこその上下であり、重力あってこその直立位である。これらも重力のありがたさを示す事実である。重力が作用している地上がなければ直立二足歩行という仕組みは進化しなかったはずである。我々人類だけでなくその他の動物の進化もこの地上なくして進化しなかっただろう。何といっても我々人類は地球上で、もっとも最後に現れた動物なのであるから。

重力の存在は、地球の生命の進化に欠かせないものであったはずだ。
特に水中から陸上へ、そして這うようにして歩くものから、足を伸ばして歩くもの、全身を直立に立って歩くものへと進化していったように、重力に打ち勝った姿に変化することが、より進化した形態といえる。
そしてヒトのように重力のはたらく地球上で、長い年月をかけて高等に進化した仕組みを持つ生き物ほど、進化の時間をかけた分だけ「重力の影響のより深い身体を持っている」と考えられないだろうか。
たとえばヒトの神経系が、優れた感覚をもち、明瞭な意識をもち、思考をするという高水準になったのも、垂直に立つという極めてバランスを必要とする高機能な直立構造が、その神経系の進化を著しく促したと考えられないだろうか。
生命が進化したステージは宇宙空間ではなく天体という星の重力の働いている地上である。
もし重力に関係なく生物が進化できるというのであれば、無重力の宇宙空間で生物が進化してもよさそうであるが、そこは生物が発生するのには適していないところである。
 ちなみにフィクションになるが、ウルトラマンは地球の空も宇宙空間も自由に飛び回っていた。しかし不思議なことに彼は地球上での活動時間が三分間で、宇宙空間に戻ればいくらでも活動できるという設定になっていた。
ウルトラマンはウルトラの星であのような進化を遂げたのか、それとも宇宙空間で進化して、ウルトラの星は寝床に過ぎないのか、その辺りの設定が知りたいところである。

また人類は“上と下があること”が当たり前であると思っているが、宇宙へ行くとそうではなくなる。やはり無重力状態で地上がないからである。
したがって上と下という基準が曖昧になる宇宙ステーションの中では、すべての壁面が壁であり、床に相当する部分がない。
モノは上から下に落下していくものであるが、これは地球上に引力があって、質量あるものに重力が生じているからである。また地球上の生き物であるヒトは、頭が上で足が下になるように進化構成された生き物であるが、これも重力あってのことである。
地球上で生活してきた我々人類は、脚で立って歩くことが当たり前で、手で逆立ちして歩くようには進化していない。つまり頭と足にはきちんとした上下関係がある。
そして、この上下関係を即座に認識して、ヒトが立とうとするとき自然に足を地に向け、頭を上にして立つことが出来るのは、ずばり平衡感覚のおかげである。この平衡感覚も重力があるから正常に働いている。
しかし、これも地球上にあるからこその基準で、やはり宇宙空間に行ってしまうと、重力というものがないので、この上下基準が曖昧になる。ゆえに潜在的感覚である平衡感覚はどっちに足を向けていいのか解らなくなっているはずである。

ただし人間は、地球上にいるときでも、平衡感覚のあることが当たり前で生活しているので、特に平衡感覚に対する自覚が宇宙空間においてもない。平衡感覚は潜在的で極めて無意識的なものである。ゆえに無意識のうちに平衡感覚は働いているので、日常においても無意識のうちに足を地上に向け歩いている。
しかし、その無意識な平衡感覚も、さすがに逆立ちをしたりすると平衡感覚は違和感を覚え、潜在していたものが著しく表面に現れる。我々は、この瞬間に、平衡感覚が在ることを体感できるのである。
またぐるぐる体を回転させた直後に起こる“目が回る”という現象も平衡感覚が知覚困難に陥って現れている。このようなときにも普段は感じない平衡感覚の実在を実感できる瞬間といえる。
平衡感覚も逆さになれば表に出る。しかし、いつ如何なるときも、この感覚はほとんど意識されないが働いていて、そして姿勢を制御している。地球上で生活するうえで、平衡感覚がヒトの身体の構造を維持するために、無くてはならないものであることが分かる。
ところが宇宙空間ではこの平衡感覚の作用がとても弱くなる。無重力であるために地上のように体の重さを支える手間や重心を維持する手間もないからである。つまり宇宙遊泳は骨格筋の機能から見れば、寝たきりのときと変わらない状況をつくる。
しかし平衡感覚は元来の潜在的感覚で、普段、平衡感覚の働いていることに気付かないし、無重力で機能が弱まっていることにも気付かない。
優秀な宇宙飛行士でも平衡感覚という重要な働きに関心を向けることなく無重力遊泳をしている。そして宇宙飛行士は、みんな地球に帰還してから身体の異変に気付く。「あれ!ふらつくな、おまけに身体もやけに重いな」と。
このようなわけで現代の宇宙飛行士は地球に帰還したときすぐに立たない。
こうして見ていけばヒトの神経系と重力の間には密接な関係がある訳であり、重力がヒトの神経系の進化に深く関わっていたということに確信を得るはずである。

ヒトは当たり前であることには無意識的になれるまでに進化している。だから歩くことが当たり前である人類にとって、歩くということは、極めて無意識的なものである。
たとえば用事があって歩いているヒトの心は、歩くことより向かう方向にある用事に、意識が強く傾いている。確かに歩くことにいちいち神経をすり減らしていては用事もできない。
ヒトが人らしく動き用事を済ますということなどは、ヒトとして健常に生活できれば当たり前のことである。
しかし身体の具合が悪くなったり、身体が老化してきたりすると、当たり前に思っていたことが当たり前にできなくなるものである。そのとき当たり前のことが、当たり前にできる身体の“ありがたさ”に気付く。

その一方で訓練などによって、それまで当たり前でなかったものが、当たり前にできるようになると、新たに“ありがたいことになる”ということもある。
たとえばヒトの身体は“訓練”によって出来ないことが出来るようになり、出来るようになったことに慣れてくると、当たり前のようになって、無意識的にその作業ができるようになる。
編み物などがそうである。これは条件反射という神経機能が関わっているように思われる。
一般的に条件反射は「パブロフの犬」のように食べる場合に起こると思われがちであるが、人の場合はこれだけでなく、大脳が進化している分だけ広範囲に顕れる。訓練すれば訓練した分だけ、あらゆる仕事が反射的にできるようになる。あらゆる行動の条件づけによりヒトのスキルは向上する。
編み物に慣れた女性は、世間話をしながらでも規則正しく毛糸を巧みに編んでいく。経理の仕事をしている人が、そろばんや電卓のキーを素早くたたく技術もそうである。
ヒトの手は訓練次第で大変な能力を発揮する。
これはヒトの手に限ったことではなく、ヒトの身体すべてが訓練によって、さまざまな能力を身に付けられる可能性を持っている。
ヒトは職業を何かしら決めなければならないが、このように進路に悩むのはヒトだからである。
ヒト以外の動物は自分の進路について考えることはしない。百獣の王といわれるライオンでさえ、その進路は“ライオンとして”生きる以外にないのである。ゆえにライオンは小さなときから狩りの練習である。ライオンから見れば「ヒトに生まれた人はいいなあ」と思うに違いない。進路の幅が広いのであるから。
しかしライオンには、そのように羨むだけの精神作用があるのかどうか、まだ分からないところである。
ヒトは、事象を観察してこれを考えることが出来る心(精神作用)を持っていることが、当たり前であると思っているが、ほかの動物の神経系統が精神作用にまで至っていないことを考えてみれば、心という精神作用があることは、とても“ありがたい”ことになる。

しかし、そのような人類であっても、職業選択の自由が個人に与えられる社会になったのは、本当に最近のことで、過去の歴史を見れば、狩猟や農耕をする時代から、小国家形成までの戦国時代、世界的国家形成のための戦争の世紀というような不安定社会の時代を経て、今日に至っているので、自分で自分の進路を考えられるような時代になったのは、本当に近頃のことである。
世界にはまだ不安定な国がある。
今のようなありがたい社会が成り立っているのは、人類史におけるあらゆる事情を考えれば当たり前のことではない。
ヒトは当たり前に思っていることについて、定期的によく考える必要がある。そして、そのありがたみを感じておく必要がある。そうでないと感謝のできないヒトになってしまって、人生をつまらないものにしてしまう可能性が高くなる。

地球に万有引力の法則により重力がなかったら、今のような姿はない。
たとえば、月と同じ程度の重力であったら、恐らく人類は生まれてこないのではと考えられる。この地球の重力なくして地球上の生物の進化は始まらなかったはずだ。
ゆえに地球に今ある重力が、あったからこそ、人は直立二足歩行を実現できたといえよう。
そして、この重力とヒトの直立二足歩行の関係を明らかにしていくことは“ヒトの身体のしくみ“や”心という精神作用“を持つ意味が、少しずつ明らかになってくることでもある。
ヒトの直立二足歩行を当たり前に思っていて、「ヒトが歩く」ということをいつまでも看過していると、ヒトの本質はいつまでたっても見えてこないといえよう。


ページトップへ

2011年5月

宇宙人は頭が大きいものなのか


直立二足歩行のことを日夜考えている私にとって、さらに進化した人類、すなわち地球外生命体であるところの人類、いわゆる宇宙人のあたまが進化とともに大きくなるというのはとても疑問なのである。もっともこれは権威あるところの発表ではなく、現代人の想像であり思い込みによる発想である。ところが我々はテレビ放送などの影響もあるのだろうが、宇宙人といえば頭の大きい身体の痩せ細った特徴を思い描いてしまう。これはもはや現代人の記憶のひとつになっていると思われる。
 何回か言っているように“脳”というものは、その思考が具現化されなければ意味がない。この具現化のために感覚器や運動器というものが発達して手足があるのであり、声があり、思いがあり、言語があるのがヒトの身体といえる。ヒトが人であるためにあるのが脳であり、ヒトが人であるためにあるのがヒトの身体である。
また人類は脳が先に出来上がってから身体が出来たのではなく、直立二足歩行の身体の完成とともに脳が並行して進化してきたというのが本当のところである。ヒトの進化した大脳半球は、ヒトの進化していく行動によって、その進化が促されてきた。
ゆえに、ただ単に知的能力のみが進化していって、手足が退化して、あたまだけが大きくなるということが私には考えにくいのである。
「手足が退化してしまったら、これまで人類が培ってきた文化は一体どこに行ってしまうのであろう。各種のスポーツは、合気道は、もう用がなくなってこの世から消えてしまうのだろうか。このようなものが姿を消して一体何が知的に進化するというのであろう」とこのように考えてしまう。

このような頭脳のみが進化するというのも、ひょっとすると勘違いではないか、人がヒトの心身をまだよく解っていないためにそのように思ってしまうと考えられないだろうか。そうそれは機械の身体にすれば永遠の命になるとか、直立二足で歩くという定義を持つ恐竜の、その上半身もヒトのように起き上がっているものであると無条件に思い込んでしまったティラノサウルスの研究途中での勘違いとか、(この勘違いによってゴジラが生まれたのでこれはこれでよかったのであるが)そういうことではないだろうか。今後人類がどのような形で進化していくかはわからない。100年先は解らない。10年先でも分からない。一寸先は闇というが、この後どうなるか、本当に人類は何も先のことが分からない生き物である。
ひょっとすると人類がもっと進化すれば、頭が大きくなるというのが正しいのかもしれない。そうすると私の考えの方が勘違いということになる。科学的研究の途中において、物事がはっきりするまで勘違いをするのが人類である。私が小学校の頃野球少年であったときよく大人たちに注意されたことは、「投手は水泳をすると肩を冷やして壊すことがあるから泳いではいけない」ということであった。これが当時、野球をする人々の一般常識である。今このようなことを言う野球のコーチはいない。
我々が今日持っている一般常識であっても、今後、日々変わっていく科学研究の中でいつ変更されるかは分からないものである。ゆえに宇宙人の頭が大きいという思い込みも鵜呑みにしない方がいいように思うのである。
しかし鵜呑みにしない方がいいと思っていることでもテレビなどで繰り返し頭の大きい宇宙人映像を見ていると潜在意識の中に入ってしまっているので、そのたびごとに「このように想像されているが本当のところは解らない映像である」と潜在意識で思い込まないように注意を払うべきである。

しかしなぜこのようなことを私が言いはじめたのかというと、ある絵画がきっかけである。
ボッテチェルリという人の描いた「ビーナス誕生」という絵を見たときの直感である。ここに描かれている女神ビーナスは、実際の人の等身大の形状よりも頭や顔はやや小さく身体と肢体が大きく描かれている。神秘的なものをヒトが描くとき、決して頭を大きく描くことが無い。むしろ頭部を小さく手足は大きめに描くことが、神秘性を芸術において描くときに必要条件であることが歴史的絵画を見ていくとはっきりしてくる。
ミケランジェロのダビデ像もそうであるし、奈良の大仏様も身体と腕と掌が大きくて頭は小さめになっている。大仏様は下から見上げるので頭が大きく感じられるが、ヒトの等身大と比較して身体と頭の大きさを比べれば身体よりも頭は小さめになっているのだという。(もっとも奈良の大仏様の場合は「下から見上げることを考慮して頭を小さくして見た目のバランスをとった」という説が定説になっている)
またレオナルドダビンチの「受胎告知」に描かれている若き日のマリア様も頭部が小さく身体と手足が大きい、その傍らで告知をしている大天使ガブリエルも同様に肢体が立派に描かれている。
この「受胎告知」が東京に来たとき、私も見ることが出来たが、レオナルドダビンチ氏はヒトの身体の構造について極めて深い観察をしていることが、そのときのレオナルドダビンチ氏にまつわる展示品の数々を見て強く感じたことである。

この“肢体を大きくしっかり協調的に描く“というのは、ヒトの持つ知的能力の無限性を表現するために必要なことだったのではないのだろうか。
彼らは自然に対する畏敬の念によって、ヒトというものの中に秘められた根本的精神性を直感し、それらを描いていたはずである。そして、そこから彼らが見出したのは、知的能力の進化や精神性の進化によって、見出されるべきことが、脳をおさめている頭にあるのではなく、むしろ心の「思い」を表現し、行動できる肢体の方にあると考えていたことが推測できないだろうか。
このように推測をした私は、心と体は本来別々のものでなく、どこまでも一体のものであると感じるのである。
このようなことを想いながら、その昔、日本の禅僧白隠氏がいっている「心気は手足末端に下げるべきである」という言葉と、昭和のある作家が残した「手が覚えていて小説を書く」という言葉を思い起こす。
優れた頭脳へと進化しながら、それを表現するための肢体が退化していくと考えることは変である。頭脳と身体を分けて捉えすぎてはいないだろうか。
私なりに考えていけば、人類がさらに精神的に知的に進化をしていったとき、20世紀後半によく想像されていた“頭の大きい宇宙人”というのはやはり不自然な進化の形態といわざるを得ない。


ページトップへ

2011年4月

私流に古典を読む

 「古典を読んでいる」などというと、一見、私が文学好きな人物のように誤解されてしまいそうであるが、そうではない。
 現代は便利なものであらゆる分野の古典といわれる文献が現代語訳されて売られている。私のような教養のない者でも読めるように解説などもついているなど配慮されている。
 私が興味をそそられるのは古い時代の医療について書かれているものである。
 文学的な古典は多いが昔の医療事情を記したものはよくよく探さないとない。いわば稀少である。
 しかし探してみるとないこともなく、幕末に書かれた山岡鉄舟という人の「剣禅話」という古典の現代語訳は興味深い。

 この文書はその名の通り、剣術と禅について書かれていることなので直接、医療というものには結びつかないように思われるが、そんなことはない。
 この「剣禅話」には、人の心と体についてあらゆる視点から書かれている。よくよく精読して見ればこれが現代の医療に役に立たないはずがないと思う内容ばかりである。

 しかしこれはただの医学の知識を知っていれば読みこなせるというものではない。
 やはり「剣禅話」という名である以上、剣という武道や禅というものに少しなりとも接していないと“面白い”という感激にひたれないかもしれない。 
 しかし、考えようによっては、とくに剣だの禅だの知らなくても、真っ白な心のままに読むと“面白い”と心が感じることもありえるだろう。


 たとえば医学というものは中途半端に知っているとかえって人の体のことが判らなくなることがある学術である。医学という知識が邪魔をして、人という心を備えた実体が見えなくなることがあるからだ。
 そして「剣禅話」という書籍に書かれているように、剣や禅を通して人の心と体を見るといっても、剣や禅が主体なのではなく、人の中にある“心”が主体である。
 万人が心という主体を持っている以上、心を白くして物を見れば物事が正しく見えてくるものである。 
 ゆえにこのような古典はその道の専門家や学者でなくても、読んでみると、生きていく上で役に立ち、医療的な役割を十分に持っている文献であると思う。
 このように思って私は読んでいる。

 また私は、キリスト教徒でなければユダヤ教徒でもないのに聖書(バイブル)を持っている。聖書というのは、世界中で最もよく知られている古典の一つである。世界的大ベストセラーであり、世界最大のロングセラーの本である。世界中のどんな有名作家もこの本にはかなわないらしい。

 この聖書というものにはよく探して読んでみると二千年以上前の医療事情についても意外と多く記されている。
 しかし教養のない私はこの“分厚い”聖書を始めから終わりまで一貫して読み通したということはない。いつもパッと開いたところを読んでいる。いわばななめ読みである。
 私はキリスト教信者ではないのでこのような自分の好むところから読むということが許されるのであろう。このような読みたいところから読むというのは熱心な宗教者から見ればたいへん失礼な手法かもしれない。

 しかしおよそ20年前ぐらいに見たあるテレビ番組で、外国のキリスト教会で働いているシスターが死期のせまる信者に、その人の最も好きな聖書の箇所を読んであげるというその行為を見て少々感銘をしたことがある。 
 このとき以来、私もパッと適当に開いてみて面白いと思うところから読んでもいいのかなと考えるようになった。
 またそのシスターは他宗教のホームレスで病で苦しんでいる人でもその教会に受け入れ、医療を施すことはできないけれども食事を与え、その人がイスラム教の人であればコーランを読んであげ、また仏教徒であればブッタの言葉を読んであげるのだそうだ。
 そしてこれは、このシスターの心に国境というものがないからできることなのだということを、そのテレビ番組ではドキュメンタリーとして放送していた。

 私も無宗教なのであらゆるものを読む方なのであるが、これは私の心が広くて国境がないのではなく、これはただ私の心が“いい加減”なだけなのである。その証拠に私が無宗教なのは私自身がいわゆる三日坊主なので一つの宗教の信者が務まらないということを意味している。

 このような訳で私はいつも自らの心の欲するものから読むという傾向がある。
 
 聖書とは周知の通り旧約聖書とキリスト氏生誕後からの記録である新約聖書という2部構成になっている。
 キリスト氏がお生まれになってからの「新約」というのは「旧約」と比較するととてもその内容が一変して進歩的である。
 「旧約」に記されている医療事情というと、「洗わない手で食物を食べてはいけない」とか「割礼の義務」とか保守的なものが多い。
 しかしキリスト氏が現れると状況は一変する。人間の常識にないことをするようになる。

 せむしのためひどい猫背の婦人の背中にキリスト氏のその手が触れるとその婦人はたちどころに背筋が伸び、その体にあったあらゆる病が癒された、とか。
改宗したパウロが記したとされるコリント第一の十二章には、「肢体は互いに協調しあう」と書いてある、すなわち「手は足を尊び足は手を敬う。肢体は(人の体は)バラバラではなく調和で満たされている。人の体はキリストそのものであって対立するところがない」ということが書かれている。
 ちょっとまてよ、ここまで見ると、今私が行っている手足をバランスさせて背骨を正し自然治癒力を引き出すというやり方は、キリストさんをはじめその弟子たちは二千年前にあたりまえのようにやっていたということでないか。
 それも私のようにチマチマとした技術ではなく奇跡的な規模で効果があるように書いてある。
してみるとキリスト氏のようにこの世に神の子(創造主の真理をそのまま持って生まれた人)としてこの現象世界に降りてこられた人から見ると現代の医学もその目にはまだ野蛮なものに映るかもしれない。
 
 そうそうそういえばキリスト氏は、医術のみならずあらゆる面で不思議な行為もしている。
 キリスト氏を打ち殺そうとして捕らえにきたパリサイ人たちの手からするりと抜け出してその場から立ち去った、ということも記されているがこれは合気道愛好家の私が思うにキリスト氏が生まれながらの合気術の達人であったことに間違いのない話である。
 
 このようなななめ読みの感想のことばかり書いていると聖書を熱心に読んでいる人々からお叱りを受けそうであるがこれはあくまで私個人の感想である。
 ゆえに「これでいいのだ」と思っている。


ページトップへ